2005年1月21日(金)〜22日(土)

伊江島フィールドワーク報告

島の大地よ!
真の意味での平穏な生活の生活の日々が訪れるのはいつ!


 基地部会では、今年初のフィールドワークとして、1月21日・22日の1泊2日で「中・北部の米軍基地調査と伊江島調査」をおこなった。21日(金)は、中・北部の米軍基地調査のあと、伊江島に渡り、「ぬちどぅ宝の家」に宿泊させてもらい、夜遅くまで謝花さんと旧交をあたためた。22日(土)は伊江島調査である。案内は伊江島村議の名嘉實さんにお願いした。参加者は部会員6名の他2名の計8名。

 本報告は、上記のうち、伊江島編である。

 

 伊江島というと城山(イイジマタッチュ)と幼い頃、村芝居で見て恐怖に立ちすくんだ復讐幽霊劇「イイジマハンドゥーグァー」のイメージが強くこびりつき、最近まで同島における沖縄戦や米軍基地についての認識はそれほど強くはなかった。今回の3度目の訪問では目的意識をもって臨んだので、大いなる学習成果を得ることができた。


伊江港の一角に移設
された被爆慰霊碑

(1) 被爆慰霊碑
 20年以上も昔、津多則光先生と沖教組島尻支部の平和教育の一つとして「教師が語り聞かせる平和教育」の資料としてこの事故を調べたことがあったが、県立図書館の古い新聞でもくわしい十分な様子はつかめなかった記憶がある。しかし現場のこの慰霊碑の碑文でもくわしい様子は記述されていないが、それにしても戦争がすんで新しい意欲に燃えて戦後生活を歩み始めた人々が廃弾の爆発によって102名の犠牲者と73名の負傷者が出たことは実に痛ましい。

(2) 通称「アーニーパイル」記念碑
 かつて読んだことのある戦記にはアーニーパイルはヨーロッパ戦線でも従軍記者として下級の兵士たちと懇意にし、かつ人気があったように記述してあった。伊江村教育委員会発行の「伊江島の史跡、名勝、戦跡、民族芸能、歌碑」のパンフレットにも彼について「戦場から無名戦士たちの模様を報道して全米を感動させた」とある。しかし彼の報道はアメリカ人の戦意を高める役割を強くになったのではないか、まして彼の4月18日の戦死後のアメリカ人の復讐のための戦意はなお高まったと思う。いまのイラク戦争におけるアメリカの報道からしてこのように類推する。ガイドの名嘉さんの説明書にも島での軍事演習後に海兵隊員の教育の場所になっているとあった。

(3) ニーバン ガズィマール
 2人の日本兵が敗戦を知らずに2年間も樹上生活を送ったことは図書で読んでいたが、いま目の前でこの木を眺めてみるとあらためて驚かざるを得なかった。2人の強い意志には共感が湧くが、ではどうしてこのような不自然な生き方をしなければならなかったのかということについて、軍人勅諭、戦陣訓、さらに遡って天皇制軍隊の思想構造まで語らなければ意味はないだろうと思った。

(4) 団結道場
 “米軍に告ぐ”と標記された道場正面の太い文字に最初に目が向いた途端に強烈な感動が湧き起こり、胸の動悸が高まる。この5文字が伊江島土地闘争に立ち上がった人々の姿勢を表わしていて、あとはこまかいことは聞くまでもないほどである。
 1970年頃、沖縄中を揺り動かした土地闘争は、まだ若くて米軍の沖縄軍事支配の動きに関心が薄かった自分にとっては遠いどこかの国でのたたかいのようであったが、しかしすぐ身近のたたかいのようにも思われ、いつも胸のなかで何かが渦巻いていた。いまこうして目の前に眺めていると心から自分の問題としての意識が高まった。阿波根さんの非暴力のたたかいがいま辺野古でも生かされていることを知るとうれしくなる。

(5) ハリアーパッド
 小さい頃から米軍による無数の事件事故が胸に刻み込まれていたせいか、米軍の基地を見るたびにすぐに憎悪の感情が先立って止まらない。それはいまでも変わりがない。このハリアーパッドの広さにまず怒り、しかもそのままの地面でなくアルミ製の金属板を全面に張りつけてある。
 しかも島の東側からはほとんど見えない場所に設置してあるこのずるさ。パラシュート降下訓練、アルミ板張り替え訓練、滑走路整地訓練、野戦訓練(夜間訓練も)など、まさに米軍がやりたい放題のこの射爆場である。腹がたってしようがない。仲間にまねて足元のダイコン(道端のこぼれ種)を引き抜いてかじっているほんの一時のあいだ、“ああ大地の香りがする”と安らぎを覚え、怒りを忘れた。

(6) アハシャガマ
 皇民化教育のいきつく先にはこのような集団死が待っていることを端的に示した場所。説明石板のなかに「防衛隊員が持ち込んだ爆雷??」とあり、このような表現は他の集団死の場所の説明には見受けられないので感心した。

(7) 公益質屋跡
 伊江島の紹介に必ず登場するこの弾痕跡の建物であるが、時間をかけてじっくり眺めているといまさらながら戦闘のすさまじさが直接伝わってくるような感じがする。だかすぐに連想するのは島の住民の被害の大きさである。

(8) 城山下のトーチカ
 何と低い天井であることか。ほぼ原型を保ったまま残されているのがうれしい。沖縄配備軍の八原作戦参謀がしきりに強調した持久戦続行のための、そして米軍の膨大な物量に対抗するための多くの地下陣地の一つがここにある。

(9) 芳魂の塔
 驚くと同時に勉強になったのはこの塔と周辺が2億円の防衛施設庁予算でつくられたということ。戦没したあとも軍事費関係の金のにおいがつきまとっていることについて、亡き魂たちは喜んでいるだろうか。

芳魂の塔の側に建てらた“伊江島版平和の礎”

(10) ミンカザント
 ♪金鵄輝くニッポンの栄えある光り身に受けて…♪で始まる紀元2600年の歌を地でいく遺物がここにあった。実在しない神武天皇から数えて皇国ニッポンは2600年ということで全国各地で賑やかに催し物、記念事業も行われ、記念物もつくられた。雨垂れ水溜めのこのミンカザントはコンクリート製とはいえ、また当時の物不足の時代とはいえ、あまりにも粗末で規模が小さすぎる感じがしないわけでもない。

(11) 城山頂上にて
 険しい階段を太田さんがついてくるので“女性に負けじ!”とくだらない意地を張り頂上まで駆け登った(…ために2日後から筋肉痛の苦しみがつづいた)。

 島の大地よ! 太古の昔からいにしえ人が住み着き、豊かな大地の恵みを受けて平穏な毎日を家族ともども過ごしてきたことであろう。が、沖縄戦で肉親を失い、いま軍事基地として土地を奪われ、基地周辺整備費などと軍事関係の金が島を支配し、自然でない形での人々の生活がつづいている。


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