ドキュメント
ぼくの大学に「 CH53D ヘリ」が落ちた

伊佐真一朗(写真・文)

(沖縄国際大学学生・沖縄平和ネットワーク)

写真1:事故後初、14:20撮影 《2004年8月13日 事故当日》

14:15頃 中部商業高校向かいの吉野家で昼食中、ヘリが上空を飛行する音が聞こえた。同時に“チリのような”黒い塊が3、4個落ちていくのが視界に入る。落下物が見えなくなったあと、ヘリの音も聞こえなくなった。落下時の音なども聞こえなかった。
(「黒い塊」は墜落していくヘリであろう。そのとき「分解したヘリではないか」とも思ったが、何かの見間違いだろうと考え、食事をつづけた。)

14:25 《米海兵隊重輸送ヘリCH53Dが沖縄国際大学に墜落、炎上したのは14:15》 事故10分後、「黒い霧」が気になって外に出でみると、沖国大方面から黒煙が上がるのが確認された。煙の高さは100メートルをゆうに超える。消防車のサイレンが聞こえたが、まだ「煙」に気づいた人は少なかった。(写真1:事故後初、14:20に撮影)
(モクモクと上がる黒煙を目にしたとき、何か一大事が起こったと思った。そして、ヘリ墜落が頭をよぎった瞬間、心臓の鼓動は激しくなり、全身の力が抜けていくのを感じた。ただ、「何かが起こった」に対してショックを受けていた。)

14:30 近くのマンション4階に上がり、状況を確認。しかし、詳細はわからず。県警のヘリがこの頃飛来、「沖縄県警です。爆発の危険がありますので、近寄らないでください」のアナウンスを行う。付近の道路が渋滞し始めるなか、消防や警察の緊急車両も現場に向かっていく。
(県警ヘリのアナウンスから、ヘリ墜落ではないかと思い始める。しかし確証を得るには至らず。ただ、目の前の現実に圧倒されるだけであった。頭のなかが混乱していたのを覚えている。)

14:35 米海兵隊中型輸送ヘリCH46E、1機が現場上空に飛来、しばらく留まる。おそらく事故の連絡を受け、状況確認のため駆けつけたものと思われる。(写真2、14:35撮影)黒煙のなかに炎らしきものが確認でき、この時点で激しく炎上していることがわかる。このときすでに道路は完全に渋滞。吉野家駐車場には見物人が集まっていた。見物人らの話から「ヘリ墜落」を初めて確認する。
(いくらか治まってはきたものの、頭の混乱はしばらくつづいた。「ヘリ墜落」という事実を確認して初めて平静を取り戻せてきた。)

15:00 現場確認のため、住宅地を通り沖国大に向かう。
(この時点で国道330号線など主要道路は広範囲にわたって大渋滞が発生していたが、志真志住宅地内の生活道路までには及んでいなかった。それでも沖国大前の通りが封鎖された影響で、大学周辺道路は完全に渋滞。住宅地内の空き地に車を停め、歩いて向かった。)

15:15 大学西の「かねひで」前に到着。もう煙は上がっていなかったが、消防、警察、米軍関係車両などでごった返し、大学前の通りはすでに封鎖。(写真3、15:15撮影)
近くのマンションに上がり、墜落現場が大学構内の1号館であることを初めて知る。事故状況を確認するため、大学の厚生会館裏口から構内に「侵入」。
(見物人でごった返す現場周辺に比べ、大学構内は人の気配があまりなく、米兵が歩いているのを見たので、大学も封鎖されているものと思っていた。)

15:25 構内に「侵入」してみると、大学全体が封鎖されていない様子で、事故を一目見ようと事故現場周辺には学生や職員が大勢集まっていた。
(写真4、15:28撮影)現場から30メートル離れた場所から撮影。米軍関係者が多数いたが、県警などの「日本人」の姿はほとんど見あたらなかった。中央の米兵(整備士か?)の向こうに墜落ヘリの残骸が確認できる。
(カメラを向けると、どこからか米兵が駆けつけ、“No Pictuar”“No Camera”と怒鳴ってくるので、カメラをもっているだけでも緊張を強いられる。この写真も米兵に怒鳴られながらもどうにかカメラに収めた1枚。そのうち、日本語を覚えてきたのか、「写真、じゃない」というようになっていた。しかし、カメラつき携帯電話のことは知らないのか、多くの見物人が携帯電話で撮影しても怒鳴ってこなかった。それにしても、米兵がわがもの顔で歩くどころか、黄色のテープで大学を占領していくのは異常な光景で、怒りさえ感じた。まるで有事、戦争である。)
(学内では、事故現場を一目見ようと集まった学生でごった返していた。しかし、「とうとう起きてしまった」という私の心境とは異なり、多くの学生は「珍しいもの」としてケータイ片手に撮影ポイントを探し回っているというのが私の印象である。ヘリ事故よりも、米兵の腕に刻まれた刺青に興味を示す学生もいる。どうしてそんなに、現場の前で友だちと平気で笑っていられるのか。私と回りの学生の意識の差に愕然とさせられると同時に、怒りさえ覚えた。)
そのうち、“KEEP OUT”の黄色いテープを持った米兵にこの場からも閉め出された。

15:50 事故後1時間半たった後も、事故現場は変わらず慌ただしかった。周辺自治体の消防車に混じって、米軍の消防車両、飛行場の化学消防車の姿もあり、車両の間を消防、米軍関係者が往来していた。(写真5、15:53撮影)
この場所にきて初めて現場の状況を確認できた。1号館の壁面がすすで黒くなっているほか、横方向に「引っかき傷」のようなものも数本見える。
沖国大向かい側の土手から事故機を確認。
(写真6、15:54撮影)機体は原形をまったくとどめず、機種の確認どころか、どのような姿勢で墜落したのかもわからない。焼けこげた「鉄くず」にしか見えない。事故のすさまじさをあらためて実感した。写真6では見えにくいが、ヘリのメインローター基部(回転翼中心部)が確認できる(円部分)。基部とローターの接続部が6か所確認できることから、ここで初めてCH53Dと確認。
15時をすぎた頃になってくると、マスコミも大挙駆けつけ、まさに“迫真のリポート”を行っているのをいくつか見ることができた。

16:16 事故現場から40メートルほど南にある民家駐車場に、全長5メートル余りもある墜落機の一部が落下していた。
(写真7、16:16撮影)6枚あるローターのうちの1枚(1枚の全長10メートル余り)であるが、メインローター基部接続部から根こそぎ外れているようで、途中から損逸している。しかし、どのようにして機体から外れたのかは、現物を見るかぎりではわからない。ローターを建物に接触させ、外れたのだろうか。また、この場所から西に20メートルほど離れたマンションの入口にも、ローターの一部(全長2メートル余り)が落ちていた。
(車が駐車していたり、歩行者がいたり、外で子どもが遊んでいたり、人の頭上に落ちても決しておかしくはない。人身被害がなかったということは、まったくの奇跡としかいいようがない。現場周辺に散乱する機体部分を目の前にしてあらためて実感した。)
(写真8、16:17撮影)別角度から撮影した事故機。機体の損傷も激しいが、周辺の樹木も焼け焦げている。中央に黒い棒状のものがあるのがわかるだろうか。幹部分を残してすべて焼かれてしまった木だ。
(事故から2時間がたったが、あいかわらず現場は慌ただしい。ここで私は現場を離れて沖縄市に向かったが、交通渋滞はまだ解消されておらず、高速道路で帰る羽目になった。墜落事故の影響は現場一帯だけではないのだ。)

写真2、14:35撮影
写真3、15:15撮影
写真4、15:28撮影
写真5、15:53撮影
写真6、15:54撮影
写真7、16:16撮影
写真8、16:17撮影
写真9、09:32撮影

〈2004年8月14日 事故2日目〉

09:32 (写真9、09:32撮影)事故から1日たった14日の朝、ふたたび事故現場に行ってみた。壁面の黒いすすで覆われ、衝突時の傷痕を生々しく残している。周辺の樹木も焼け焦げ、熱で木の葉も枯れてしまっている。
写真9の右下の車両は、飛行場に配備されている航空機用化学消防車。再発火に備えて待機しているのか。
(ふだんは交通の多い大学前の市道は封鎖されたまま。この影響で周辺地域の生活道路は大渋滞となった。乗用車のすれ違いさえきびしいこの道に、大型トラックも往来する。歩行者はまったく安心して歩けないし、まして緊急車両が通行するときのことを考えると恐ろしい。)
(写真10、09:33撮影)大学向かいのアパートのブロック塀。ヘリの墜落時に破壊されてしまったのだろうか。塀の上部が1メートル余りにわたって損傷し、破片が散乱している。塀内部の鉄骨ものぞいている。
(写真11、10:06撮影)沖国大・琉球大の学生自治会は事故直後から“事件糾弾”を訴える動きを展開している。13日には米兵に追われたテレビ局の記者を保護したほか、その日から正門前で「沖国大への米軍ヘリ墜落・炎上事故弾劾」の横断幕と写真パネルを作成し、運動を展開した。
しかし、肝心の学生の抗議行動への反応が鈍いのか、ただ事故翌日で学校が封鎖されてると思ったのか、学生自治会の学生数名のほかには学生は見当たらない。
(学生自治会は活動の中心として「反戦運動」を学内外で展開しているが、それに対する学生の評価はあまりよくない。「過激」な行動にはかかわりたくないのか、たんに社会問題への関心が薄いだけなのか、いずれにしても一般学生の意識を高めるには至っておらず、今回も一般学生の関心が盛り上がるかは疑問だ。この時間、事故現場を訪れた学生は私一人である。)
(学生自治会のスタンスはともかく、彼らの社会問題に対する意識は相当高く、彼らと話して暇をしたことはない。今回もいろいろな情報交換をすることができたが、彼らと一致したのが「いまの学生は何でこんなに意識がないんだろうね」ということ。「珍しいもの」としてしか見ない多くの学生の姿勢にはやはり気づいていた。)

写真10、09:33撮影
写真11、10:06撮影
写真12、12:24撮影 〈2004年8月16日 事故4日目〉

12:00 今日は12時から事故現場に向かう。事故機の撤去が開始されるということで、報道陣も集まっていた。やはり横断幕を掲げた学生自治会もいた。
(写真12、12:24撮影)大学に到着したときはちょうど昼休みとあって、通りに連なる食堂や弁当屋に学生が集まっていた。夏休みとはいえ、ゼミや集中講義、自習などで登校する学生は多い。駐車場の埋まりぐあいからみて、この日も千名近くが登校しているはずだ。事故の起こった13日金曜日もまた然り。
学生が昼食を買い求めるのは日常の光景だが、平穏な「日常」でないことを、手前の「通行止め」の標識が物語っている。市民生活に大きな弊害をもたらしたこの道路の封鎖は、10分後の12時35分に解除された。

12:35 機体の撤去を行うために、「誰のものか」を知ってか知らずか、現場周辺の樹木を米兵が次々と伐採していく。おかげで事故機がよく見えるようになった。
(写真13、12:39撮影)事故機は写真右の方向に機首を向けており、写真左端には焼け残った後部胴体がある。矢印の部分に円筒状のものが横たわっているのが確認できるだろうか。これはCH53が胴体の左右に装着していた燃料タンクである。明るいグレイの塗装はすべて焼かれ、ジュラルミンの地肌がむき出しになっている。消火が遅れたり、燃料が漏れていたら、大爆 発を起こしていたに違いない。
(写真14、12:39撮影)事故現場全景(全範囲ではないが)を見る。機体後部の一部が原形のまま残っているが、テイル・ローター(機体後部の回転翼)部分が空中で分解し、我如古公民館の近くに落ちている。機体の中前部分はぺしゃんこにつぶれ、まったく原形をとどめていない。
ヘリが衝突した1号館の壁面はいくらか雨に洗われ、すすもいくらか落ちている。黒い部分から下の部分の壁面は熱でペンキが消えてしまい、コンクリートの地肌がむき出しになっている。また、壁面にはローターで引っかいたのか、横方向に数本の傷が刻み込まれ、屋上縁側も削り取られている。

12:55 400人規模のデモ行進がきていた。
(写真15、12:59撮影)「県職労」「高教組」などの労働組合がほとんど。「普天間基地即時返還」「ヘリ墜落弾劾」「無条件撤去」などを訴え、代表者が警察機動隊と向き合い、事故機撤去に反対するなどの「抗議文」を読み上げた。
(写真16、15:54;写真17、15:59撮影)事故機の運び出し開始。機動隊に守られながら、焼け残った後部胴体の一部を載せたトレーラーが普天間基地第2ゲートに向かっていく。

16:00 事故機の撤去に反対する学生デモ隊が、運び出しを阻止しようとトレーラーを追いかける。(写真18、16:02撮影)写真はデモ隊とそれを阻止しようとする機動隊との「衝突」の場面。結局、数で劣勢のデモ隊は機動隊の阻止線を超えることはできなかった。

写真13、12:39撮影
写真14、12:39撮影
写真15、12:59撮影
写真16、15:54   写真17、15:59撮影   写真18、16:02撮影


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