(第66号;2008) 久保田 誠 「あごら」のナカマタチ

 「オレにもできることはあるのかな?」Aさんが冗談まじりにつぶやく一言には、嫌味がない。世の中を真面目に生きる人とは、彼のような人のことをいうのだろう。といっても、とりたてて彼が穢れのない、いわゆる心優しき善人だというわけではない。見たままをいえば、むしろその反対であるかも知れない。タバコは1日に2箱、時間があれば昼間から酒も飲むし、女の子の話だって欠かせない。

 では、何がいったい真面目なのかといえば、それを言葉で説明するのはとても難しい。なぜなら、彼はいわゆる世間に通用するどんな肩書きも持ち合わせていないし、あえて自分の意見を主張することも、どちらかといえば得意ではないのだから。

 「Mさんはいつも皿洗いの仕事をしているんだから、ここでは料理を覚えたらいいさ」そう話しかけながら、Bさんは解凍したチキンのもも肉に、慣れた手つきで包丁を入れる。やってみたいというMさんに手順を示しながら、必要な作業を一つ一つ仕上げていく。

 おそるおそる手を出すMさんは、最近ひとり暮らしを始めたばかりとのこと。Bさんの調子に合わせているうち、緊張してぎこちなかったMさんのからだは、しだいにほどよくゆるみその場に馴染んでゆく。できあがったチキンのからあげを目の前にして「うまいかな?コレ?」とつぶやくMさん。「うまいサ!あんたが作ったんだから上等サ!」こたえるBさんの声は楽しくはずんでいる。

 「ウルトラマンに助けてほしい。早く出てきて、悪いヤツをやっつけてほしい。C子より」そんなメモ書きが床に落ちていたのは、昨年の夏ごろだっただろうか。えんぴつで強くなぞられた文字は、クシャクシャになった紙の上に、ただならぬ緊迫感を漂わせていた。身に降りかかる災難をうち払おうとする彼女の怒り、これが言葉の力である。

 ここ半年近く、コーヒーを沸かすことが彼女の仕事の一つとなっている。器用ではない彼女の手先は、思うようには動いてくれず、ぶつけたりこぼしたりと幾度も失敗を繰り返す。しかし、失敗が繰り返されるのは、彼女の仕事に対する誠実さの現われではあっても、傲慢さのそれではない。なぜなら、ポットをにぎる彼女の姿はいつも輝いて見えるから。

 時代が人の「こころ」を話題にし、その自由を押し込めるようになったのは、今にはじまったことではないであろう。いやむしろ、世の中の雲行きがあやしくなると、決まって聞こえてくるのが、人の「こころ」の荒廃を嘆く世間の声かも知れない。「こころのバリアフリー」などと、いったい誰が言いだしたのか、格好の良いきまり文句として、ちまたに聞こえるセリフである。

 しかしながら、言葉を操ることは容易く、その意味を考えるのは難しい。なぜなら、事の真偽を確かめることは、その人自身にしかできないからである。「こころ」を引き合いに出してあれこれと講釈をするのは、よほどの道徳家か商売上手、あるいは自分に深く埋没してしまっている輩かも知れない。

 「世の中、捨てたもんじゃない」そうして等身大の自分に向き合うこと、そうすることで、わたしたちは他者との関わりを損なわずにすむのではないだろうか。自由とは、こう言ってよければ、自分の領域をオープンにすることでようやく見える世界の広がりのことである。

 それは、他者との関わりを失うことなく、いやむしろそれを求めることで得られる社会の変容の可能性である。「こころ」を奮い立たせるのではなく、必要なことは差別に反対して人間の差別化をなくすこと、今の世の中にあっては、それが他者との関わりを求める最も確かな方法の一つである。

信頼のまなざしは内側にではなく、自分の外側に向けられるものではないだろうか。AさんやBさん、そしてMさんやCさんのように…「あごら」にはそんな人々が行き交っている。

(久保田 誠/沖縄平和ネットワーク会員・ソーシャルハウスあごら施設長)


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