(第65号;2008) 久保田 誠 「いま、オキナワの子どもたちは・・・」

 「どうして?と他人から聞かれても、親にもわからない…」。あるお母さんの言葉である。小学校5年生になる娘は、4月から一度も学校に足を運んでいない。周囲の人たちはそんな親子を気づかってか、あるいは興味本位からか、そのお母さんと顔を合わせると、きまって「どうして?」と聞いてくるらしい。世間一般から見れば、「ふつう」とは違うその子の行動は、やはり目立ってしまうのだ。そして、ほんの二言三言の会話の後に出てくるのは、きまって「たいへんねえ…」と何か事情を察したような言い方だったりする。

 こんなふうに説明すると、とても深刻な場面を想像される方が多いかも知れない。実際に親がわが子の身の上を案じるその姿には、どこかのっぴきならない真剣さがつきまとうから。しかしそんな周囲の予想とは裏腹に、同時に「娘からたくさん学ばせてもらっている」と言うこのお母さんには、気負った表情は微塵もなく、むしろ学校に行かない娘との生活に確かな手応えを感じているような明るさがある。

 子どもはいつの時代も、世の中をうつす鏡のようなものだと言う。単純に時間の推移から考えれば、子どもは親から生まれて後の時代を生きる。子どもが親を選ぶことができないということは、生まれた子どもが無条件にその環境で生きなければならないという意味で事実である。そして今日、実際に多くの子どもたちが、さまざまな困難に直面しながらも、その環境を生き抜いている。

 しかし、だからといって苦しんでいる子どもに対して、あたかも現実はこんなにも厳しいのだと諭すことだけが大人の役割だとすれば、そんなにも情けないことがあるだろうか。あるいは反対に、将来の暮らしをあたかも夢のように描き出して見せることで、厳しい現実から目をそらすように働きかけることも同様である。少なくとも子どもたちには、そんな大人の策略に対してNO!を言う権利がある。

 こんなふうにいうと「だから自分勝手なやつが増え、世の中が上手くいかなくなるのだ」という声がどこからか聞こえてくるようである。しかし先に述べたように、仮に子どもが与えられた環境を文字通りに受け取って、ただ生きるだけの存在であるとすれば、自分勝手に生きることができるのは、むしろ力のある大人の方だということになる。

 そして実際に、今の世の中には、金や権力など簡単に通用する力のある者が、やりたいようにやっているという一面があるのも事実である。そんな世の中に見切りをつけて、力のない大人としてこれまた文字通り大人しくしているのも、一つの進み方ではある。そうしてかろうじて自分の人生を全うすることは、何とかできるかも知れない。しかし子どもたちには、やはりそんな大人の言いわけに対してNO!を言う権利がある。

 それでは何が問題なのか、自分に問われていることをはっきりさせるために、必要であれば鏡の前に、つまり子どもの前に立ってみればよい。はたして大人は目の前の子どもに、つまり子どもの姿がうつし出す世の中のあり様に、そしてその世の中を生きている自分の姿に十分に向き合っているだろうか。未来を生きる子どもは、何も夢のような世界を生きているわけではない。大人が生きているこの現実を同じように生きているわけである。たとえて言えば、未来を生きる子どもの姿とは、現在を生きる自分の姿である。

 わたしたちは実際に自分が直面している生活の難しさについて、普通に話し合える場をどれだけ確保することができているだろうか。なぜなら、その難しさの中には、当然ながら子どもたちの抱える問題も含まれているからである。わたしたちは、目の前の子どもたちを置き去りにして、あらぬ方向へ歩み出していないかということを、確かめてみる必要があるのではないだろうか。なぜなら、それは未来の自分を失うことに等しいからである。わたしたちは、人生に対する驚きに満ちたその眼差しを、自らの手で覆い隠してはいないだろうか?

(久保田 誠/沖縄平和ネットワーク会員・ソーシャルハウスあごら施設長)


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