(第59号;2007) 宮良 信男 「見えないあやはし・見える海中道路」
来年の4月1日のことだが、早くも今日の新聞にはあやはし海中ロードレース大会の日程が告知された。潮風を浴びる風光明媚なコースは、平安座島・浜比嘉島の2つの離島と埋立地(平安座と宮城島間をCTS・石油備蓄基地を造るために埋め立てた。高離島(たかはなりじま=宮城島)・伊計島(いちはなりじま)を結ぶ)の道路を含めたコースだ。
この一帯の島は津堅島を除いて全て海中道路と橋で結ばれる。ややフラットなコースで、最も好タイムが出る大会で、伊平屋のムーンライトマラソンとともにネーミングがいい。
大和からの参加者からは「海中じゃなかったの?」と、愚痴が出て、ブログには詐欺とまで書き込まれた。Tシャツにも、Ayahashi in the sea road race と書かれている。どう見ても海面より上を道が走っているし橋も橋桁もある。above the sea roadだろうか。
勝連半島から平安座島を結ぶこの全長4.7qの海中道路は、れっきとした県道10号伊計平良川線(22.9q)で、東洋一を誇る。戦前はサバニで行き来したようで、終戦後は米軍の水陸両用車やトラックを使って往来し、海の中を走ることから「海中道路」と名付けられたようだ。
小学生の頃、祖父と2人で路線バス最終地点の屋慶名まで来て、浅瀬を走るトラックを見たことがある。海中にこだわるようだが、資料館の展示写真には海上トラックと表記されている。島出身の先輩ジョガーのお話では、昭和36年頃、離島苦解消するため海中道路建設期成会を設立し、時の琉球政府にも陳情せず自力で堤防道路つくりを始めたようだ。
平安座の各戸から干潮時に毎週1回大人1人が参加し、平安座島、屋慶名間の海上に巾20m、高さ2mに石を積み上げ、延長1900mまで達したが、2年後に台風に壊され挫折したとのことだった。
その後、石油基地建設のため、干潮時の3〜4時間を利用し一日平均30台近くのショベルカー、ダンプカーを稼動し6カ月位で石、砂利、砂を積み上げ道を造ったと教えてもらった。資本の力を見せ付けられ「資本こそ革命」と革命を夢見る青年マルキストを嘆かせたとも聞く。
海中道路が土堤と橋で構成されたものと定義付けるならば、元祖・海中道路は長虹堤(ちょうこうてい)だ。その昔、安里川・久茂地川・国場川から運ばれた土砂が、海岸の入江に堆積し小島(浮島)が出来た。その小島の一角の漁村が那覇だったと言われる。時は14世紀、尚金福王時代に安里との間に海中道路をつくり、陸路で首里と結んだ。崇元寺前の安里橋から若狭町村までの約1qにアーチ式の美しい7つ(8橋とも)の橋が架けられたようだ。
冊封使が来た時、長虹堤(虹のような架かる橋と堤)が出来るまでは、船を集めてつなぎ、渡ったと言われる。この海中道路の造成も、二夜三昼神仏に祈り、ついに海水が引いて海底が現われたとき、士民総出で土石を運び7日間で築いたとのおもしろい伝えがある。映画「十戒」のようで、資本も神仏の力には勝てなかったようだ。
「あやはし」についてふれよう。海中道路には2つの橋が架かっているがあや橋という橋はない。中央に綾色に輝きそびえる橋は平安座海中大橋という名が付いている。
おもろさうしを引こう。
「伊計グスク親のろ神女が、まちらすの親のろ神女が、美しい心の橋を架け給いて、島を囲って支配して、尚真王に奉れ(おもろさうし/外間守善校注・岩波文庫)」。「かつて古琉球の人々は、あやごと称される歌を謡いながら日々の平穏を願う祈りを神に捧げていた(与那城町広報)」と解説する。おもろは、その祈りで島々に橋を架けることにたとえて「あやごはし」をかけると表現した。夢は実現し、更に新たな世界へ托しているようだ。
平安座海中大橋は「波を蹴り、雲を突き抜け、飛び立つ鳳凰」をイメージ化し、マラソン大会は「心のかけ橋」「夢のかけ橋」「世界へのかけ橋」をテーマとしている。
去年の大会のレース終了後、視覚障害者のTさんの体調に異変が起こり、4日後にこの世を去った。視覚障害者や、その伴走仲間たちは気を落とした。彼はそれこそ、波を蹴り、虹をかけるように、雲を突き抜け鳳凰のごとく、空高く昇って行った。眼を瞑れば今でも、海と空が一体となった広い空間に祈りの古謡あやごが潮騒とともに聞こえてくる。心の橋、祈りの橋「あやはし」もくっきりと姿を見せ始める。合掌!