(第46号;2004) 村上有慶 「戦争文化財指定基準の考え方」
1996年3月の文化財指定規準改正によって、戦争文化財の指定に向けて行政的な取り組みが進んでいる。2002年時点で国指定は、8か所、県指定が4か所、市町村指定が39か所、国の登録文化財が18か所の合計69か所が指定を受けている。
1996年から、全国の県教育委員会に対して文化庁から所在調査の依頼があった。その結果、一昨年段階で、全国から544か所の所在が明らかとなった。それを基礎として、文化庁は、指定へ向けての詳細調査対象50か所を選定した。沖縄では、南風原陸軍病院壕群と海軍壕の2つが選定された。
一昨年の12月、ガラビ壕の立ち入り禁止問題の解決を含めて、平和ネットワークは沖縄県教育長に対して、ガマの保存活用のための文化財指定を要請した。それを受けて県教育委員会は指定へ向けて取り組むということになった。昨年10月、沖縄県教育委員会は、文化財保護審議会の下に、戦跡指定作業部会を置き、平和ネットから吉浜と村上の二人が委員として選ばれた。昨年まで埋蔵文化財センターの下にあった調査委員会のなかで戦跡の調査をしていたものが、何の連絡もないままに調査委員会が廃止になった。どうも埋文センターのなかでは「平和運動団体に利用されている」というような議論があったらしい。そんないきさつからいって会議が行われる埋文センターには行きたくもないが、戦跡指定に影響するとなると無視もできなく、委員を受けることになった。
沖縄県としても、まだ全県調査が終わっていない。南部編・中部編・北部編・那覇と近隣離島編の4編の調査報告書は出ている。宮古・八重山編をもって沖縄全体の詳細分布調査が一応終わる。当初、県教育委員会は調査をすべて終了後に指定については取り組むと私たちにはこたえてきた。したがって、今回の県の指定は、国の選定した2か所に限定せず考えていく。
それぞれ指定が進んでいる以上、何らかの根拠があってのことだろう。しかし、戦跡指定は始まったばかりの指定であり、実は指定基準ははっきりとしてはいない。建造物の場合、どうしても形が残っている割合が大きいほど指定されるだろう。歴史的価値はそれについてくる。建築の世界でも戦前の国宝指定のように「国家の栄光の歴史を伝える」というものとは違い、「広く国民の共有財産として保存し、公開をするなど活用につとめる」ために指定する。原爆ドームは世界遺産に指定されたが、前身の物産陳列館として使えるわけでもないし、用途を変えて建築物として使えるわけではない。人類が経験したことのない原爆被害を体現する遺物として指定されたものだろう。南風原陸軍病院壕などのように、地中に埋蔵しているものについては、考古学的調査が必要になる。長期の地上戦がたたわれた沖縄では戦跡は大半が埋蔵文化財にならざるを得ない。海軍壕などのように従来から整備が行われてきて保存状況のよいものは指定しやすい。1977年に史跡指定された伊江島の公益質屋は、大きな砲弾によって破壊された跡をよく残している。しかし、私たちは1990年の南風原陸軍病院壕群を日本初の戦争文化財指定と位置づけてきた。それは、沖縄戦に係る意味づけをして、活用まで考えた指定は南風原が始めてであったからである。
私たちが従来から平和学習に活用してきたアブチラガマやガラビ壕などは、意味合いが少し違う。戦場の現場にあり、種々の体験証言がある。したがって、平和を学ぶ材料があり、その平和的価値の高いものを学びの場として活用できるか否かが戦跡の場合、重要な指定要件にならないだろうか。
一般的に政治・行政・軍事関係施設などについて、保存状態のよいものを指定してゆく傾向がある。沖縄のように戦場化した島では、壕や弾痕、艦砲穴などをどのように整理してゆくのかが問われる。また、戦中・戦後に部落単位でつくられた埋葬地や納骨堂は時間的に戦跡といえるのか否か。その周辺に遺族会や戦友会が建てた記念碑・顕彰碑は戦跡にはならないだろう。
また、沖縄市が指定した奉安殿・忠魂碑は皇民化教育の過ちのシンボルとして指定したわけだが、当初から疑問の声があった。一国の首相が靖国神社に参拝し、アジア諸国民から批判を受けつづけるという国である。過去の誤った侵略戦争を聖戦としてあがめるためのシンボルになりかねないという不安が拭い去れないからである。
いずれにせよ、「もの」事態が直接的に何かを語ってはくれない。そこで何があり、何を学ぶべきかは、裏づけ証言が大事である。戦時体験記録を採り、戦跡を文化財指定し、学びの場としての平和資料館をつくることは、平和を引き継ぐために切り離して議論することはできないだろう。