(第44号;2004)  村上有慶 「蛇にピアス・蹴りたい背中
                             −現代若者考−」

 今年の芥川賞で19歳と20歳の女性が受賞した。活字ばなれが言われて久しいが、同年齢の学生たちが珍しくも争うように本を読んだ。そのこと自体はよいのかもしれない。

 『蛇にピアス』は舌にピアスを刺し、次第に穴を大きくして行き、蛇の舌のように先を2つに割るということに執着し、背中に竜の刺青をする女と、あこがれの蛇の舌を持つ同棲者の青年とその刺青師との間にある奇妙な三角関係のなかで起こる殺人事件を結末とする奇妙な短編である。

 『蹴りたい背中』は、どちらも自閉的なクラスののけ者のような2人の高校生が、グラビアモデルとのごくわずかな関係を通して、そのモデルを偏愛する男子生徒に不思議な興味を持ち、そんな彼の背中を蹴りたい衝動に駆られる。作品に共通するのは、一人称の世界に閉じこもった病的とも言える非社会性である。読んだ後の後味の悪さと絶望感は、文学の名に値しないと思わざるを得ない。考えてみれば選考委員には『限りなく透明に近いブルー』の村上龍、『太陽のない季節』の石原慎太郎も名を連ねている。私自身が高校生時代に読んだ『太陽のない季節』で、性的遊戯にふける学生たちの描写に不快感を覚えたときと似ている。

 

 イラク戦争を許容している現代日本人の精神的絶望の裏返しの作品が受賞するという世相をつくりだそうとする層があることは理解できるが、なぜ若者たちが好んでこのような悲劇的作品を読むのかが理解しがたい。

 当然、虚構の世界の話であることはわかっているし、自分自身の日常がそんな劇的なものとはかけ離れた平凡なものであることもわかっている。私が日々かかわっている学生たちは、どちらかといえば成績のよい、いいとこの子女たちがほとんどである。人間同士が深くかかわったり、社会問題を議論しあったりという風景はない。同じ研究室に1年間暮らしていても、浅い人間関係にとどまって、深くかかわって傷つくことを恐れるようなところがある。物心ついたときに親の準備した塾に通い、疑問をもたずに進学の道をひたすら歩いてきた子たちが多い。そんな彼らの非社会性と一人称的立場は、2つの作品に見る主人公たちにある意味では似ている。

 大きな国家的な力には「しかたがない」とあきらめ、身近な人間関係に信頼感がもてなければ自己保存的に被害妄想に陥る。国家が大きな借金をかかえ、社会全体が後退の方向へと向かっているなかで、単純に「夢をもて」というだけでは説得力はなかろう。

 

 「高度経済成長をつづけていた1960年代から70年代は、前向きで伸び盛りでよかった。90年代のバブル崩壊後は、昔とは違うからしかたがない」といった論調があふれている。しかし、どうだろうか。高度経済成長期には労働災害は多かったし、労働者の社会的地位も賃金も低かった。公害が蔓延し、さまざまな社会的悲劇が生まれた。戦後の多くの日本人が吉田茂に感謝し、礼讃した。戦後処理の放棄と日米軍事同盟へ寄りかかって経済復興した日本を「是」とする日本人が多いが、私たちは「高度経済成長」には反対の気持ちを持っていた。その場その時代ごとに矛盾は満ちている。世の中はいつも二律背反のところがある。

 

 大切に育てられてきた現代の若者たちは、空虚という日常を経験したことがあるのだろうか。自己の無力感や心の中の空虚さは、人間として生きている以上、日常のことといえる。いつも大切にされ、自己が幸福に満たされることが当たり前のように育ってきた。自己存在の裏側には、他己の悲劇が存在するという社会的問題には向き合わないし、自分を誰かが支えてくれているという感謝の気持ちも希薄である。耐性に欠けるという言い方がよくされるが、つねに受け身であるがゆえに、いつも満たされないという渇望感に襲われつづける。偉そうにしている大人だって、本当のところ矛盾に満ちているし、人生一生、自分探しだ。地域や組織のなかで息が詰まるような思いを我慢している。それでも、一歩でも社会に貢献し、世の中をよくしたいと思って生きているのだ。文学の世界では許されても、開き直って世の中に背を向けずにやって欲しいものだ。

 現代のような国家が嘘をつく大義名分とやらにだまされないように闘って欲しい。そのためには、自己防衛的にではなく、身近な出会えた人々を信頼し、大切にして行くことだと思う。2つの作品に救いがあるとすれば、裏返しだが、身近なものへのはかない愛着みたいなものが少し感じられる点ぐらいだろうか。


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