上の文章は、新築移転した沖縄県平和祈念資料館が掲げる設立理念である。旧館(ガイドブック『平和への証言』2〜3頁)の文章を、字句を改めたり(20万余→20数万、10万余→10数万、こころ→心)、挿入・修正した(太平洋戦争→アジア・太平洋戦争、自ら命を絶→自ら命を絶たされ、など)ものである。

常識や通説はいかされているか
これは沖縄県の最も新しい沖縄戦に関する公式見解である、といってよいだろう。常識や通説はいかされているだろうか。行線部分が私の気にかかるところである。
(1)沖縄戦は90日でいいのか。「鉄の暴風」だけが沖縄戦ではない。沖縄戦はいつ終わったのかが問われる(通説は降伏文書へ調印した9月7日)。
(2)県援護課資料(公式数字)では約20万である。沖縄戦の犠牲者数(戦没者)は確定していない。「平和の礎」の刻銘数から沖縄戦戦没者数を特定することはできないか。
(3)「県民を総動員した」を挿入しても、硫黄島の戦いがあるから「沖縄戦は唯一の地上戦」とはいえない。どうして「唯一の」にこだわるのか。
(4)(5)県援護課資料では一般住民と軍人はともに約9万4千人である。同数では「はるかに上まわっている」とはいえない。
これらのことは沖縄戦のこれまでの常識や通説を反映しているといえるだろうか。あるいは裏づける記録や資料があるのだろうか。残念ながら展示資料に答えは見つからない。

皇軍兵士の末路
(2)(4)(5)に関連して、将兵の死に様も「地獄の戦場」として留意すべきである。「正規将兵の戦死者6万6000人、捕虜7800人(ほとんどは負傷兵)、ふつう、戦死1に対して負傷3というのが作戦の常道ですが沖縄戦では、これが逆」になっている(『平和への証言』140頁)。実に8.4倍にあたり、死亡率も一般住民よりもちろん高い。
第32軍が首里から摩文仁へ撤退するとき、「苦慮したのは重症患者の処理であった。」「相当数の重傷者が収容不能の状態で」、「軍参謀長は『各々日本軍人として辱しくないように善処せよ』と指示した。」(『沖縄方面陸軍作戦』553頁)という。
しかし、首里高女の学徒らが目撃した「軍人らしく」は次のような処遇であった。
「当初の方針は、『当地で玉砕』であったが、5月29日急遽、撤退となった。その時、重症患者30名は、心臓にクレゾール液を注射され、口から泡を吹き10分後に死んでいった。その後、生徒らは、独歩患者を誘導して撤退した。」(『公式ガイドブック ひめゆり平和祈念資料館』66頁)。手榴弾を与えたり、青酸カリ入りのミルクを飲ませたのはまだ人間的である。足手まといになった傷病兵のなかには文字通りウジ虫のように殺された者もいたのである。