(第37号;2003)  新垣安子 「思い出の証言者たち」

 地域史の仕事で戦争体験の聞き取り調査に当たるときは、本(市町村史)に収録することを前提に話を聞かせてもらう。「話したくない」と断られる場合もあるが、断られたあとで先方から連絡が入ったり、さらに別の体験者を紹介されることもある。

 Yさんの場合もそうだった。「子どもを亡くして、戦後もいろいろありましたから、もう思い出したくないんです」。最初の訪問時にYさんはそう言っていた。だが、二児の親になった娘さんに「母さん、すっかり話して記録してもらったら」と勧められ、やっと話す気持ちになったという。

 Yさんは1945年3月、生後間もない長男と実家の3人のきょうだいを連れてヤンバルに疎開した。粗末な避難小屋の中で、子どもが泣くたびに「殺せ」という声が飛んできた。米軍に保護され収容所に入れられたのが5月末か6月頃である。

 その収容所である日、長男を抱いて寝かしつけていると突然、山の方から弾が飛んできてYさんの腹部をかすめた。抱いていた長男が「ウッ」という声をあげたような気がした。一瞬の出来事であった。やがて通訳の二世兵士がきて、抵抗するYさんの腕から子どもを引き離し病院に連れて行った。Yさんの衣服は血だらけになっていた。長男は、即死状態だったという。

 「私は、フリムン(気が狂った状態)になっていました。不思議なことに、そんな時、人は涙も出ないんですよ」と話すYさんの目から涙がこぼれ、しばらく沈黙が続いた。

 防衛隊から無事に帰ってきた子どもの父親は、「子どもはまた生まれる。お前が無事なだけでもよかった」と慰めてくれたが、Yさんは長男を守れなかった、と自分を責めた。そして戦後、夫と離婚しムラを出た。

 弾を撃ったのは日本軍の敗残兵ですか、と聞いてみたが、山の方から飛んできた流れ弾らしいというだけで、真相は分からない。

 原稿を持って再度訪れると、Yさんは一言「ありがとう」といった。

 

 Tさんは戦争中、義父母や幼い子どもたちとムラに残った。夫は海軍にとられ、佐世保に行っていた。戦後は収容所を転々とさせられたが、ヤンバルに疎開していた義妹たちを含め、みな無事であった。

 敗戦の明くる年、ムラに戻され、掘っ建て小屋での生活が始まった頃から出征していた男たちが帰ってきた。Tさんも夫の帰りを待ちわびていたが、夫が奄美で女性と一緒にいるらしいとの噂を聞いた。義父が確かめにと奄美に行った。その噂は本当だった。しかも夫は、大きなお腹の女性を同伴して帰ってきたのである。沖縄は全滅したと聞き、奄美で暮らすうちに子どもができてしまって、放っておけなかったと夫は言い訳した。

 それからTさんの、地獄のような暮らしが始まった。女性を別の家に住まわせ、本家と別宅を往復する夫。Tさんは何度も離婚を考えたが、そのたびに「我慢してくれ」と義父母に泣かれた。10数年後に奄美の母子が島に帰ったとき、Tさんはそのとき子どもたちを全員集め、彼らにも財産分与すると話した。

 Tさんに、その話を文章にしていいのかと聞いた。「表には出ませんが、そういう話はたくさんありました。これも含めて戦争です。女の人の苦労は戦後の方がより大きかったのです」。きっぱりと言い切るTさんに、私は圧倒されていた。原稿を仕上げ、Tさんの前で読み上げた。さらに私はTさんの子どもたちにも原稿を見てもらったが、「母がよければ」との返事を受けた。

 

 最後に、女子救護班に動員された体験を持つBさんのことを話したい。

 ある日、Bさんがどうしても話したいことがある、といってきた。驚いたことに「戦争中一緒に行動していた友人のことを、避難途中で亡くなったと話したが、それは事実と違う」、と切り出した。調査のとき私が友人の死亡場所を聞くと、Bさんは急に怖い顔になり口をつぐんだ。事実は「避難壕にいたとき直撃弾を受け、Bさんの上に友人が追い被さるようにして伏せた。ともに軽い傷だったが、友人は収容所にきて間もなく体中が黒ずんでむくみ、黒いものを吐いて苦しんで死んだ」というのである。

 戦後、最初に援護関係の調査があったときBさんは、友人のことを「避難壕で亡くなった」と証言した。そうしなければ弔慰金がもらえないから協力してくれ、とある人に頼まれたのだという。友人は戦死に違いなかった。誰もBさんを責めることはできない。

 

 前号で紹介した札幌の故伊藤孝さんのことで会員の皆様にお願いがあります。ご遺族の方は、伊藤さんが残された沖縄関係蔵書を、公的機関に寄贈し広く北海道の人たちのために役立てたいと希望しています。六百冊ほどあるそうですが、私たち沖縄の友人はその蔵書がさらに充実し、北海道と沖縄の架け橋となる記念文庫となるように願い、献本運動(ちょっと大げさですが)を展開したいと思っています。ご協力をお願いいたします。


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