(第35号;2002) 新垣安子 「父の国が侵略した」
私は個人的に、フィリピンの移民と戦争に取り組んでいる。なぜフィリピンか。それは父が移民し、家族の歴史が始まった地であり、母の国だからである。
私の母は、1930年に移民の日本人(つまり私の父)と一緒になり、ずっとフィリピンで暮らしていたが、戦後、父の郷里沖縄にやってきた。母の名前はフランシスカ・セナといったが、1956年に日本に帰化して以来、戸籍の上では新垣夫巳枝となっている。しかしそれは、決して母の本意ではなかったと思う。
私のきょうだいは7女4男の11人。そのうちの6人は、フィリピンで生まれた。7番目の私からは沖縄生まれである。私たちは小さいころ、姉や兄たちからフィリピンの話を聞いた。
開戦とともにフィリピンは日本軍に侵略され、その占領下に置かれていた。だが1944年11月のレイテ決戦以降、日本軍は敗走に次ぐ敗走であった。
私の家族がいたパナイ島では、1945年3月18日に米軍上陸。山中に撤退する守備軍のあとを追って、在留邦人も逃避行を開始した。逃避行4日目、ジャングルの中で「集団自決」事件が起きた。疲れ果てた老人、婦女子がこれ以上軍の足手まといにならないように、ということだったらしい。日本人会幹部が話し合って決めたという。「自決者」の数は50人前後とのことだが、不明な点がまだ残っている。私の母たちは、すんでのところで難を逃れた。
山奥での避難生活がおよそ半年続いた。その間ゲリラの襲撃におびえ、飢餓に苦しんだ。そして敗戦。間もなく日本人の強制送還が始まった。母は収容所で米軍の取調官に、「あなたはフィリピン人だから残っていいよ」といわれた。迷ったようだが、「長女が沖縄にいるから」と引揚船に乗ることを選択した。
1944年に一人だけ沖縄に帰った長女は、県立第一高等女学校の最後の入学生であった。母は、家族離散だけは避けたかったという。もし母が残っていたら、長女以外の2人の兄と3人の姉は「残留孤児」になっていたかもしれない。私はのちにフィリピン残留孤児問題に取り組むことになるが、それは、もし自分の姉や兄たちだったら、という思いがいつも心にあったからである、
私の家族は1945年の11月か12月の初めごろ、多くの引揚者とともに神奈川県の浦賀に上陸した。沖縄県人はすぐには帰れない。しばらく逗子の海軍関係の寮にいたが、父の弟、つまり私のおじが逗子に迎えにきたので宮崎に移った、おじは学童疎開の責任者の一人として、宮崎に滞在していたのである。母はそこで長女と感激の対面を果たす。
それから沖縄に帰るまでの約1年間、私の家族は生活のため熊本県荒尾市や福岡県大牟田市などを転々とした。そのころ母のお腹のなかにいたのが、7番目の5女の私である。1946年8月15日以降、沖縄県人の郷里への帰還が始まったが、私の家族にはなかなか乗船の順番が回ってこなかったそうだ。母は、寒いところでお産にでもなったらどうしようかと、ずいぶん心配したらしい。
同年11月初め、私の家族は佐世保港から引揚船に乗り、久場崎港に着いた。そして父の郷里平安座に落ち着いて1週間目の1946年11月10日、本家の離れで私が生まれたのである。
太平洋戦争がなければ、母は故国を離れて暮らすことはなかったであろう。あるいは私もフィリピンで生まれていたに違いない。日系フィリピン人として今ごろは「父の国のことを知りたい」と、沖縄に調査旅行にきていたかもしれない。
しかしずいぶん長い間、私はフィリピンに関わることを避けていた。真剣に向き合う気持ちになったのは、父の死がきっかけであった。1980年、父が80歳の生涯を終えたとき、母は「フィリピンに帰りたい」と泣いた。私たち子どもがここにいるのに、なぜ?
父の一周忌後、私は母と連れだって、初めてフィリピンを訪れた。母と楽しげに談笑するおばやいとこたち。私はフィリピン語が話せない。
いとこの案内で、かつての移民の足跡を訪ね、戦争中の逃避行の地を追体験した。「集団自決」の現場から奇跡の生還をした人たちが、ひっそりと暮らし、肉親を捜していることも知った。以後、私は何度かフィリピンに飛び、調査に取リ組んできた。
調査につきあってくれたいとこが、ある日ポツリと「日本人のことばかりね」といった。父の国が母の国の侵略者であったことを、私は忘れてはいけなかったのだ。