(第34号;2002) 川満昭広 「それぞれの6・23 -座間味にて-」
7月、座間味島に行く機会があった。久しぶりだった。7年前の1月17日、眠さをこらえて、座間味行きの船に乗った。
9時出航のクイーン座間味は、私が乗るとまもなく出発した。息を切らして入っていった船内では、テレビが「阪神大震災」の情報を刻々と報道していた。目を疑った。座間味到着後の民宿でもテレビがつけっぱなしだった。私にとって、座間味島は忘れることができない島になった。実は社用で座間味島の本をつくることになっていた。1泊2日の出張は、阪神大震災の報道で明け暮れ、ほとんど仕事をすることはなかった。
その後、仕事で数度渡り、2回の空撮を行った。島を取り囲む海は壮大で美しかった。その島と取り囲む海に、戦争があったことは誰に想像できようか。島の人々は、3月26日の米軍上陸によって、行き場を失い、かねてから指示されていた、「捕虜になるより死を選びなさい」を強制されていった。多くは子どもをかかえた女性であり、子ども、老人であった。また、55万人とも言われる米軍船団に向かって、爆雷をかかえた九州から飛んできた特攻機は、その座間味島の海でまさに鉄の暴風にさらされ、撃墜され死んでいった。
今回、座間味島に行く機会を得たのは、高文研と平和ネットワークの共催による沖縄ツアーで、座間味の戦争を『母の遺したもの』の著者である宮城晴美さんが案内することになり、共催の一仕事とも言える「大和馬の壕」までのアクセス道路をつくることであった。なんせそこは藪の中にあったからだ。
島に船が着くと、村役場の喜屋武民生課長さんが旦那さんと車を用意して待っていた。早速、私たちは(大城和也さん一人ですが)大和馬壕へ案内された。そこには、ユンボがせわしく作業をしていた。土木工事かと思うと、大和馬壕への道路を拓いているとのことだった。竹林を分け入って行くと地元の女性(オバーちゃんたちでした)が作業をしていた。私たちは10時半ごろ到着したが、作業はほとんど終わっていた。
申しわけ程度の「手伝い」をしながら、一緒に作業しているオバーちゃんの戦争体験を聴いた。なんと、その大和馬壕に一時、宮城晴美さんのお母さんといた方だとわかり、思わず戦争体験に夢中になり、作業を中断させてしまった。詳しい内容は前述の本を読んでください。
港まで送ってもらい、港では喜屋武さんが渡嘉敷の出身であり、その島でも「集団死」があり、本人は生き残りの一人であった。喜屋武さんがそこでぽつりと話した。「ここでは『6・23』は普通の日ですよ。「3・26」に慰霊の日があるんですよ」ということだった。常々、「民衆の戦争体験」と言っているにもかかわらずである。はっとさせられる言葉であった。一人ひとりの戦争体験が沖縄戦であることを、あらためて学ぶことができた「旅」であった。