2005年7月24日(日) 第3回なんくるフィールド塾
「復帰闘争・教公二法阻止闘争」

 この日も朝から暑かった!最初のポイント「立法院跡」では蝉の大合唱に迎えられ、福地先生の声が聞こえないほど。ここは第二回「島ぐるみ闘争」で、伊江島の乞食行進について学習した場所でしたが、今回は教公二法阻止闘争についてお話いただきました。沖縄の大衆運動で指導的役割を果たしていた沖縄教職員会の、政治活動を制限しようとするこの法案に反対するために、1967年2月24日2万5000名もの人びとが詰めかけたことを知り、つくづくここが県民の闘いの場だったんだなと実感。暴圧的な政治に立ち向かう民衆の姿が、福地先生の淡々とした語りの中に映し出されて

いました。数年前、立法院の建物が壊されるとき保存を求めた人びとの気持ちが、今になってようやくわかった気がしました。先生は廃案決定の約一ヶ月後、右翼によって大腿部を刺され三ヶ月の重傷を負います。怪電話にも悩まされたそうです。でも屈しなかった。この精神力こそが、骨折程度でフィールドの講師を断らない、今の先生につながっているのだと思いました。(この日先生は左肩を二ヶ所骨折されていて、固定具を付けた状態で一日案内をしてくださったのです!!!)

 その後、与儀公園へと場所を移し、話は復帰運動へすすみます。「復帰男」と呼ばれた福地先生は沖縄全島だけでなく東京などでも復帰の重要性を説いて廻られていましたが、一方で、当時から復帰への問題点も指摘されていました。それが、今回配布された資料に収録されています。沖縄県教職員組合が1971年11月に作成した「『返還』協定・復帰関係法案の問題点」です。「安保の変質化」「核かくし」「本土なみではない基地の態様」など、現在まさに議論されている内容が、すでに指摘されていた問題であることがわかります。復帰運動の舞台となった与儀公園の片隅に憲法九条の碑があることは、とても重い意味を持つのだなあと感じました。沖縄が復帰すべきは、平和憲法のもとにある日本だったということです。憲法が形骸化し、改憲論が現実化している今こそ、この場所へ立ち返る必要があるのではと思いました。

 バスは沖縄自動車道に乗り、辺戸岬へ。復帰運動は、保守も革新も一つになって(一部、復帰に反対した保守は除く)目的に向かって突き進んだ、大きな歴史のうねりだった。1950年代の初めから少しずつ動き出していたこのうねりが、徐々に大きなうねりへと変わり、教公二法阻止を成功させたことでさらに勢いづいた。今回のフィールドのテーマだった「復帰闘争と教公二法阻止闘争」は、まさに一つの流れとしてとらえるものだったことがわかりました。その闘いは「鋭角的ではなく鈍角的な運動」だったと先生は言いました。この言葉に象徴されるように、復帰運動だけでなく沖縄の闘いはいつも、良くも悪くも鈍角的だけど絶え間ない闘いを強いられているのだと思いました。

 辺戸岬からの帰り道に立ち寄った最後のポイント大宜味村喜如嘉の公民館は、復帰行進の宿泊地として知られる場所。喜如嘉公民館の方々が冷たいお茶を用意してくださって、復帰行進団ならぬ復帰学習バスツアーの一行を迎えてくださいました。今日はこの距離を車で一気に走ってしまったけれど、この距離を何日もかけて歩き、それを何年も繰り返し、願いを叶えるために闘い続けたのが、福地先生をはじめとする沖縄の先輩方なのだなあと思い、当時は果てしなかったであろう闘いに身を投じた人びとを改めて尊敬しました。陽炎の中に、行進団がぼんやりと浮かんで見えるような気がしました。喜如嘉出身の参加者Yさんからスイカの差し入れもいただき、みんなで汗を拭いました。「当時は朝まで浜辺で先輩と島酒を飲んだよ。私の青春の全てだったと今、思うよ」という参加者の言葉は印象的でした。

 帰りのバスの中では「私と復帰」をテーマに、参加者にそれぞれ語っていただきました。体を張って闘争に挑んだ方、基地労働者として様々な矛盾の中で自分を保ちながら闘ってこられた方、教員として教育と運動の両輪を動かしてこられた方、また闘いの中で生涯の伴侶とめぐりあった方など、闘いを振り返ることはそのまま生き様を振り返ることなんだなあと、聞き入っていました。このバスにはいろんな沖縄を背負った方が乗っているんだと思うと、なんだかとても嬉しく思いました。そして、もっともっと多くの人に、このバスに乗って欲しいと思いました。

 次回の学習はいよいよ基地問題へと入っていきます。これからも沖縄が抱えるいろんなゆがみを、しっかり見つめていきたいと思います。


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