ヌヌマチガマ証言/座嘉比ヨシ(地元女子青年団)

(前略)

 カンポーは、港川から新城に飛んできたわけ。その日の夕方の5時からカマドをつくりにヌヌマチガマに行った。最初は入り口に6つ、カマドをつくった。

 最初の頃、患者は5名から10名だった。私なんかはガーゼなんかを洗ったり、夜は野菜やいろんな物を取ってきて、夜だけはご飯を炊いて、おつゆなんかをつくった。それから飲める人も食べる人にはご飯をあげて、食べきれない人にはもうあげない。1ヶ月くらいはそうしたけど、4月の中旬頃からは、いつまで戦争が続くかわからんから、米は大事にして、もう1日に1回だけ。ちょうどみかんくらいのおにぎりをみんなに渡しよったんです。

 1号室は手術場つくってあったんです。手術場は人の高さにして、人が寝れるだけの幅をセメントでうっていた。手切れたり、足切れたり、頭やられたり、おなかやられたりした兵隊がみんな運ばれてくるんです。どんどんけが人が運ばれてくるので、来たらすぐ1号室の手術場に入れていた。4月の初めになると、もう麻酔が切れてしまってなかったから、それからは歯の小さいノコギリで、ガサガサ切って。医者は「ばかやろう、これはきれいに治すんだ」と言って怒って切っていた。そうやって治療した後、手術場には寝かされんから、ヌヌマチガマからガラビの大広間に兵隊が担架にのせて運んでいた。6月までにはちょうど1000人ぐらいになっていたんです。ガラビの大広間はもう入りきれないから、民家から床板を取ってきて、段を作って、この上に寝かしよった。

 手術場の向かい側は、きれいに床を敷いてあった。少尉、軍曹、大隊長なんかがよそから来たら、こっちに寝かしていた。1日に1回治療していたから早く治りよったんです。一般の兵隊は、石の上に何も敷かないでそのまま寝かして。治療は1週間に1回。ウジもダラダラして。「水飲ましてくれー、お茶飲ましてくれー」という兵隊がいっぱいいた。でも水飲ましたら、上の兵隊に怒られるし、出血するということだから、飲まさなかったんです。飲まさなかったために空き缶に自分のおしっこをやって、しっこも飲みよったんですよ。しっこは塩辛で、もう飲めないんだけど、もう仕方がないからしっこも飲みよったんです。

 亡くなってもう4、5日になると、もう真っ黒くはれるわけ。真っ黒になってからでしか、私たちや衛生兵はわからないから、周ってその連絡をすると、今度は衛生兵が担架に入れて、ヌヌマチガマの出たところにあった穴に入れて、埋めた。

 炊事は、人数が多かったのでヌヌマチガマだけでは足りなくて、ガラビ壕に9つカマドをつくった。そのうち1つは、お茶釜。一斗缶を座らせたもの。でも、おつゆはもうつくちきれなかった。軍の粉味噌や醤油、塩もあったんだけど、おつゆは全然つくらないで、ただご飯だけ。

 ガマの中は真っ暗で電気も何もないから、ビール瓶みたいな瓶に石油入れて、あっちこっちに、歩けるように掛けてあった。軍の石油は保管して置いてあるから、瓶に石油入れて、布を突っ込んで、火をつけていた。私や兵隊が歩く時には、それを斜めにして、布に石油がつくようにして、持って歩いた。

(中略)

 6月3日に南部に解散だよ、となった。歩ける人は歩いて、這っていける人は這って出て行った。歩けない人はもう壕の中にいた、薬を手榴弾を両方持って、「手榴弾がいいか、薬がいいか」というと、薬を取る人も手榴弾を取る人もいた。小さい乾パンが、いざというときのためにいっぱい置いてあって、これをみんなで開けた。小さい乾パンは網の袋に入っていて、またさらに缶に入っていた。これは1人に1袋ずつしか当たらなかった。4日か5日くらいは手榴弾でパンパン死ぬ人もいるし、薬を飲む人もいた。薬を飲んでも1回では死に切れなかった。

 このガマには朝鮮人の女が5人いた。全然仕事もさせないで、野菜取りにも行かさないで、寝たり起きたり、食事は自由。「なんであの人たちには仕事をさせないで、私たちのつくったご飯をあげて、遊んで、私たちはこんなに使うの」と係の兵隊に怒ったことがあった。「あれは、よっちゃんたちにはできない、他の仕事をしているから怒らないで」と言われた。この意味もわからんですよ。子どもだから。「何やってるのかな」とこれだけしか思っていなかった。6月3日、この人も薬と手榴弾を持って、乾パンも1人に1袋持って出て行った。あの人たちは、外に出ないから、ケガはなかった。手榴弾をあげると、それを腰にくびって(結んで)行った。それ以降、会っていない。亡くなったはずよ。

(後略)

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